お久しぶりです。琉生です。週刊 歴史上の人物のお時間です。

今回はこの人

『徳川家康』

江戸幕府を開いた人物であり初代将軍です。

徳川家康はどうやって幕府を開いたのか、大阪冬の陣・夏の陣が起きたのはなぜ?

意外と知らない家康の功績をご紹介

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徳川家康は己の主が今川義元→織田信長→豊臣秀吉と3回も変わっています。殉職しないの珍しい…

秀吉の元に付いた家康は秀吉政権の最有力大名として活躍し、秀吉の死後、五大老の筆頭としてさらに力をつけていきました。

そしてついに1600年(天下を「と(1)ろ(6)う(00)」で有名な1600年)に、関ヶ原の戦いで家康(東軍)は豊臣側の石田三成(西軍)を破ります。この戦いは午前8:00ごろ〜正午過ぎあたりで決着が着いたと言われています。ちなみに裏切り者で知られる小早川秀秋が裏切ったのは正午過ぎだそう。裏切りで決まったんですね。身近に早々に裏切る人がいたらあだ名を小早川秀秋にしましょう。

その後朝廷から征夷大将軍を命ぜられ、江戸に幕府を開きました。

ところが大変。大阪に豊臣秀吉の息子がいることがわかります。家康の息子、次期将軍の秀忠が心配な家康は豊臣秀吉の息子豊臣秀頼がどんな人物かを確かめるために面会の場を設けようとしますが、豊臣側は拒否。(殺されるかもしれないからね…)交渉の結果護衛付きで会うことになりました。家康の元へ秀頼が来ると、家康は衝撃を受けます。

「自分の息子よりもできるやつだ…!!江戸幕府の安泰が危ない…!!」

なんとかして秀頼を倒そうとする家康。そこで目をつけたのが方広寺にある鐘に刻まれた文字でした。

家康の文字が分断され、豊臣の文字が繋がっていることを「家康の身の切断を意味し、豊臣の繁栄を願ってる!」と言いがかりつけて戦いをふっかけます(方広寺鐘銘問題)。大坂の陣(冬の陣・夏の陣)です。

この戦いで豊臣家を滅亡させた家康は早々に息子秀忠に将軍職を譲り、大御所として実験を握り、75歳という当時ではベリーベリー長生きをして生涯を終えました。

家康が築き上げた江戸幕府はその後256年続き、大政奉還で朝廷に政権が移るまで続きます。

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粘り強く我慢し天下統一を果たした徳川家康のお話でした。次回は何かな。お楽しみに。

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